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きのこねじり
2024/04/25(Thu)
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2018/03/11(Sun)
下の記事と一緒に書き溜めてた長文下書きがふたつも消えてしまった。むかつく〜!使いにくいぞブログアプリ!!
絵のどうでもいいこととかだらだら語ってたんだけど、まあ読み直して納得したしいいことにするか…やっぱり日記は書いたときに出しとかないとだめだなあ。

ともあれ思い詰めて筆取れなくなったときは文字にしてみると結構すっきりする。
中学生の頃とかノートに毎日日記書いてたけどあれはよかったな。ツイッターで愚痴りそうになったら日記書こうかな…
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2018/03/11(Sun)
これ何度か言ってるけど女の子をかわいく描くのは超重要事項で、親心としてかわいく描いてあげたい。端正さとかの話とはちょっと別で、泣いてても怒ってても人としての美しさを持たせたいというか。
ただわたしの得意?分野であるところの地味な絵ではきらきら系かわいさが浮いてしまうんだよな。利用してるつもりはないけど、二次創作だと心置きなくきらきらかわいい女の子を描けてたのしい。反応貰えるとかわいく描けてる自信がついてうれしい。目をきらきらに描かない時期が長くあったんだけど、シンデレラガールズのお陰でいらないこだわりを捨てられたので本当によかった…

あと人の表情って絵の中においてめちゃくちゃ意味がある。いや当たり前だろと思われるかもしれないけど、最近になってよ〜く思うようになった。今まで無意識にしっくりくる表情を当て嵌めてたし、大抵無表情が正解な絵ばっかり描いてたから深く考えたことがなかった。
表情があることもないことも顔が隠れてることも意味がある。目線ひとつも慎重に決めなければ。

2018/02/13(Tue)
こないだ知人に会ったとき、ブログに書いてたけどさ〜と記事のことをちょろっと触れられてびっくりした。読むんだ…いやもちろん構わないけど…
かくいうわたしもブログ読む。いまは人類総ツイッター時代だし、自分も脳から直接内輪向けの鍵アカに妄言垂れ流してるけど、定期的にあの人お元気かな〜ってブログ覗きに行くのたのしいよね。

ツイッター、他人の生活をなんとなく眺めるのはたのしいけど、自分で呟くのはなんだかすごく難しくなってきてしまった。変に難しくしてるのは自分なんだけど、すきなキャラクターのアイコンで気持ち悪いこととか気分よくないこと言わないようにめっちゃ気を遣ってしまう。でもアイコンは顔なので見栄張ってかわいく描けた絵とかにしちゃうのだ…いい顔したいのだ…
他人のネガティブな感情とかすぐ貰ってしまって落ち込むタイプなので、自分では公の場でそういうの出さないようにしよ…と思うんだけど、結果的に鍵で吐き出しちゃってるわけなので、友だちみんなごめんねいつもありがとう…。なんの話だ?

まあそういう、身内に言うようなことでもないけどツイッターで垂れ流すのも違うな〜と思ったことをここにまとめて書いたりしています。誰かが読んでるかもしれないな〜くらいが気楽で向いてると思う。
ツイッターも他人の生活を眺めるためにやってるようなもんなので(フォローしてないけどたまにホーム見に行ってツイートまとめて読んだりとかするアカウントがいくつかいる…)わたしのすきな文体のひとたちはみんなブログ書いてくれないかなと思いました。おわり。

2017/11/01(Wed)
夜中に長文したためてなにやってるのか…と思ったけどそもそもそんなこと考えてたんではなく、たまには粘土で工作したいな〜みたいなことだった。
ただわたし手のひらが変にあったかくて、且つ不器用でもたもたとこねくり回すので、紙粘土はすぐ乾いてしまって向いてない。あとバターがとけすぎて成形できないので焼菓子つくるのも向いてない。かなしい。
パン作りは手があったかいといいらしいので(焼きたて!!ジャぱんで言ってた)パンは希望を感じる。パンおいしいし…

2017/11/01(Wed)
すっかり忘れていて今ふと思い出したこと。

小学校低学年のとき、図工の時間で紙粘土の魚の置物をつくった。集めてたビー玉やらおはじきを目とか鱗にたくさん埋め込んだやつ。記憶はおぼろげだけどよくできていたと思う。
通っていた学校は生徒が少なく、全学年ひとクラスずつしかなくて、教室の隣に予備の空き教室があった。机を使わない授業のとき移動したり、図工の作品を保管したりする。その紙粘土も乾かすために、日の当たる窓辺の床に並べてた。
ある日乾き具合を見に行くと、ビー玉がいくつか外れている。落っこちたかな?と教室を探してみるけど見つからない。次の日見に行くと、さらにビー玉はなくなっている。きれいに剥がされていて本体は壊れてなかったけど、深く埋めていたものまでなくなっていくのはさすがに不自然なので、先生に相談してみた。
先生は空き教室にクラス全員を集めて、犯人探しはせず、作品が壊された、人がつくったものを壊すのはよくないという話をしてくれた。たしか。そこで自分の受けた仕打ちを改めて捉え直して、かなしいのか悔しいのかで泣いてしまった気がする。人前で泣いた数少ない経験のひとつだと思う。以降誰かの図工の作品が壊されることはなかった。
当時いじめという概念がなかったのもあるけど、ビー玉がほしくて誰かが持ってっちゃったのかなあくらいにしか考えてなくて、嫌がらせの可能性に全然気づかなかったあたり、なんてハッピーな子どもなんだ…と思う…。
まあ結局犯人は知らないままだし、思い出したというだけの話でオチはない。自分は事態の飲み込みがよくないことがあるので、ときに他者のほうがかなしみをうまく語れたり、言葉にすることでそれに見合う感情を繕っちゃってるところがあるなあ、と思った。

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